手段となった言葉は雑草だ
石原のことばは濡れた荒縄のように私の胸をしめつける。論理の不合理性が、かえって状況の視えない急所をつき、古い痛覚を刺激してくる。「日本のがもっとも暗黒な時代あってさえ、ひとすじの声は、巌として一人にとどいた」「いまはどうか。とどくまえにはやくも拡散している。民主主義は、おそらく私たちのことばを無限に拡散して行くだろうと思います」。
これらのことを詩人は三十七年も前、「民主主義」や「対話」がまだしも表面の新鮮味をたもっていたころに、絶対的孤立者としてとつとつと話しつづけ、重い疲労感のにじむ独言そのものの詩文をあてもなく書きのこした。ことばに見はなされるのは絶望にひとしい。しかし、それを早くから予言していた詩人のいたことは、私にとってことばのささやかな希望なのである。
ヴォルター・ベンヤミンは「内奥の沈黙の核へむかってことばを集中的に向けてゆく場合にのみ(ことばは)真の働きが得られるのです」「手段となったことばは雑草です」(マルティン・ブーバーあての書簡)と記している。政治や資本やマスメディアがことばをどこまでも安くもてあそぶとき、ことばには徐々に鬆がたち、ついにはひとを見かぎる。石原吉郎はだから最後にいいすてた。「私たちがなおことばをもちつづけようと思うなら、もはや沈黙によるしかない」
辺見庸『水の透視画法』共同通信社2011年
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