ありがとう
「実は五輪一ヶ月前に、死を覚悟したこともあったんですよ」
空港上空で、緊迫した声のアナウンスが流れた。
「後輪が出ないので胴体着陸をします。燃料が空になるまで上空を旋回します。IDとパスポートは身体につけ、それ以外の荷物はすべて棚に仕舞い、頭は下にしてください」
機内はパニック状態になった。窓の下には、消防車や救急車が数十台待機している。荒川はパスポートを握りしめ、これが自分の死体選別になるのかと覚悟した。
「飛行機事故の映画やドラマで、死の直前に『ありがとう』というのを見て、恐怖の瞬間にそんなきれいごとを思うわけはないと考えていたんです。でも実際生死の際に立つと、本当に感謝の気持ちしか思い浮かばないんです。あの人にも、この人にも『ありがとう」って言ってなかった、って。だからもし生き延びたら、トリノでは感謝の気持ちで演技しようと思った」
吉井妙子(スポーツライター)/荒川静香を強くした五輪直前の飛行機事故『文藝春秋2010・9』
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