技術と人格
三原の「プロ」定義は、スポーツにかぎらず、芸能の世界でも通用する定理です。一芸に秀でたプロの世界で、さらに「原点」を極めたスターなどに、まず「マトモ」なのはいない。そして光に影が付き添うように、彼らには常にスキャンダルが付きまとう。
カッブは守備側の盗塁阻止を「脅かす」ため、靴底のスパイクにヤスリをかけ鋭利な刃物に仕上げた。その作業を、相手チームから見えるベンチ前で行ない「警告」を発した。
試合中の乱闘騒ぎは珍しくなく、敵チーム選手とだけでなく、審判との殴り合いも繰り返した。さらに汚い野次(人種差別の言葉を含んでいた)を飛ばしたスタンドに飛び込み、その観客を叩きのめした。
「武勇伝」は球場内に留まらない。常時、拳銃を持ち歩き、毎日、バーボンを一瓶あけ、遠征先にモーテルで娼婦が料金相応のサービスをしなかったと騒動を起こしーメディアは彼を「最高の技術と最悪の人格とのセット」と要約した。
ここで私は想像する。こういう隈取り鮮やかに毒々しいアメリカン・ヒーローが、日本の相撲取りが賭博にノメりこみ、解雇・謹慎処分を受けたとのニュースを聞いたら、どんな反応を見せるだろうかーと。
カッブなら、即座に「博打がどうした」と反問するでしょう。「スモウという格闘技は古典的髪型を守っているらしいが、リキシたちは修道僧をも兼ねているのか」と質問するかもしれない。要するに「飲む・打つ・買う」の個人的嗜好について厳しい戒律を設け、禁欲的生活態度を強いる発想など理解できないのです。
彼らはプロフェッショナルにとって、許されない背徳とは、観客への忠誠を裏切ることだけなのです。ということは、観客への媚を意味しません。反対に観客は選手にファインプレーを要求し、対するに、選手は素人が予想できない「芸」を見せる。両者は緊張関係にある。
プロ選手に「品行方正」をひたすら要求するメディアは、この肝心の問題を見誤っているのです。最重要の「プロとしての資格・条件」を棚に上げ、瑣末な道徳論を展開している。淋しからずや、道を説く君ーといいたくなる。
諏訪登(ジャーナリスト)/力士が博打をやって何が悪い!『Will‐2010年9月号』文藝春秋
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