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2010.07.18

初めて見た他人の激情

そこに座っていると、日本兵が乗ったオートバイが走ってきた。オートバイは後ろに若い女を引っ張っていた。女は裸にされ、縛られた両手をオートバイにゆわかれている。そのまま引きずって走るから、体中の皮膚が裂けていく。私はその女の人を助けたくても助けられない。そんな力は残っていないのだ。

 そこまで話した時、林さんは号泣した。泣きながら絶叫した。
林「同じ人間にどうしてそんなことができるんだ。人の命をどうして安物あつかいするのか。一体、何が人間にそんなことをさせるんだ」
 林さんは身悶えし、両手を振り回し、足踏しながら、私をにらみつけ、号泣し、絶叫した。私は、それほどまでの激情を人間が表現するのを見たのは初めてだった。ここまで、激しく深い悲しみを見せられては何も言えない。何もできない。私はただ、林さんの激情が収まるのを待つだけだった。
 林さんは激情が収まると話を続けた。
林「私はそのまま、独房に戻された。捕まってひと月以上経った日の夕方、憲兵が来て、処刑するが、妻に言い残すことはないかと尋ねた。私は何もないと答えた。
 すると、憲兵はコーヒーを飲ませてやると言った。私は、殺す前に最後の楽しみを与えてくれるのだと思った。ボーイがコーヒーを持って来た。熱いブラック・コーヒーだった。憲兵はそのカップを取り上げると、そのコーヒーを私の頭から浴びせかけた。私ははけどをして、それまでに受けた以上の苦痛を味わわされた。私は、一体何が人間を、同じ人間にこんなことをするように駆り立てるのだろうと、考えた。私にはわからない」
 最後に、林さんは憲兵隊に協力する条件で幸福にも釈放されるだろう。
林「私は、こういう残虐行為を本当に野蛮なことだと思う。しかし、私は自分の宗教上の立場から、誰も避難したくない。過ぎたことは過ぎたことなのだ。
 私は、この経験を家族の者に一切話していない。家族の者が復讐の念を抱くといけないと思うからだ。復讐はきりがないし、何も生み出さないからだ」
 林さんは、おだやかな表情に戻って立ち去った。

雁屋哲『日本人の誇り』飛鳥新社1995年

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