抱き手と利き手
時実利彦氏(『脳を考える』日本経済新聞社)によれば、私たち人間には(利き脳)というのがあり、その仕組は、ほぼ次のようになっている。大脳は、左と右の大脳半球に分かれていて、大脳半球の表層の大脳皮質にある運動野の脳細胞から、筋肉へと運動の指令が送られてくる。そして、どうしたわけか、左の大脳半球の運動野は、身体の右半分の筋肉を支配し、右の大脳半球の運動野は、身体の左半分の筋肉を支配することになった。そして右利きの人では、左の大脳半球の運動野にある、手に運動の指令を送る脳細胞が、右の大脳半球の運動野の脳細胞よりもいっそう機敏に働いているというわけである。
ではいったい、どうして人間には右利きが多いのだろうか。この点については、時実氏も、「すでにアウストラロピテクスの時代に、なにかの原因で左の大脳半球が(利き脳)になり、現代人にまで遺伝したのであろうと考えらている」としか言っていない。もちろんこれでは、まったく答えにはなっていない。けれども、同じ著書のなかで時実氏も指摘しているように、他方において、母親による幼児の抱き方として、(左抱き)と(右抱き)とを考えた場合、右手の自由な(左抱き)の方がはるかに多いという事実がある。
すなわち、名画としてよく知られているラファエルやダヴィンチなどの聖母子像―聖母マリアが幼な兒キリストを抱いている姿―で見ても、またアメリカ社会での現在の一般の母親の子供の抱き方をしらべてみても、ほぼ七〇~八〇パーセントが(左抱き)であった。そしてその原因として、抱いた赤ん坊に母親の心臓の鼓動を感じさせるためであろうとされている。一般にこの(左抱き)と(右利き)とは必ずしも一致するものではないらしい。しかしそれでも、(左抱き)だけではなく(右利き)も、人間の身体の非対称性のあり方、とくに心臓の位置と密接に関係しているはずである。(左抱き)が示すように、心臓の位置との関係で左手が保ち、守る働きをするのに対して、右手は他に働きかけ、作用する役割をもつと考えられるからである。
中村雄二郎・山口昌男『知の旅への誘い』岩波新書1981年
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