« 最高の気分 | トップページ | 人間の定義 »

2010.02.09

見えない角度

それが鴨の美味しさも最後の春のはじめだった。

 筑紫さんが発病して、治療に入り、少し体力が回復した頃、久しぶりに電話があり、何か美味しいものを食べに行きたいという。食欲が出たのは何よりだと喜び、何が食べたい? と聞くと言下に「鴨鍋が食べたい」という。私は早速、琵琶湖畔の魚清楼に、ご夫妻をお招きした。手術の後なので筑紫さんは毛糸の帽子をかぶっていたが、それほどやつれてもいず、大病した人とも見えないハンサムぶりだった。その日、筑紫さんは、焼いたもろこも鴨鍋も美味しいと連発して、大丈夫かと心配になるほど召し上がった。
「こんなに食欲があるなら大丈夫ですね」
 と私は房子夫人に話しかけたら、夫人は、筑紫さんには見せない角度で「ええ」と答えられたが、その表情ははっとするほど曇っていた。
 その帰りの車の中で、筑紫さんは、
「今度は日田で天然のすっぽんを食べようね」
 と弾んだ声で誘ってくれた。
 その後ふと重い声になり、
「寂聴さん、このまま行けば日本は滅びるよ」
 とぽつんと呟いた。
「やっぱり九条をしっかり守りぬかなきゃ駄目だよね」
 と言葉がつづいた。

瀬戸内寂聴/奇縁まんだら△122『日本経済新聞2010.2.7』

|
|

« 最高の気分 | トップページ | 人間の定義 »

」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/26560/47520345

この記事へのトラックバック一覧です: 見えない角度:

« 最高の気分 | トップページ | 人間の定義 »