自分のためのわずかな窪み
「あなた方は研究室で虫を拷問にかけ、細切れにしておられるが、私は青空の下で、セミの声を聞きながら観察しています。あなた方は薬品を使って細胞や原形質を調べておられるが、私は本能の、もっとも高度な現れ方を研究しています。あなた方は死を詮索しておられるが、私は生を探っているのです」(集英社版、奥本大三郎訳)
昆虫たちはかたくななまでに自らの食べるべきものを限定している。棲む場所も、活動する時間帯も、交信する周波数も。彼らは自分たちが排泄したものの行方を知っている。彼らは自らの死に場所と死に方も知っている。誰にそのように食われるかということでさえも。
なぜか。それは、限りある資源をめぐって異なる種同士が無益な争いを避けるために、生態系が長い時間をかけて作り出した動的な平衡だから。そして、その流れを作っているのはほかならぬ個々の生命体の活動そのものだから。彼らは確実にバトンを受け、確実にバトンを手渡す。黙々とそれを繰り返し、ただそれに従う。
これを生物学用語で「ニッチ」と呼ぶ。ニッチとは本来的に隙間の意味ではない。すべての生物が守っている自分のためのわずかな窪み=生態学的地位のことだ。窪みは同時に、バトンタッチの場所であり、流れの結節点となって、物質とエネルギーと情報の循環、すなわち生態系全体の動的平衡を担保している。
あえて今、ニッチを「分際」と訳そう。すべての生物は本能の、もっとも高度な現れ方として自らの分際を守っている。ただヒトだけが、自然を分断し、あるいは見下ろすことによって分際を忘れ、分際を逸脱している。私たち人間だけが他の生物のニッチに土足で上がりこみ、連鎖と平衡をかく乱している。
福岡伸一/ファーブルに学ぶエコライフ『文藝春秋2010・3』
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