オリンピック選手は意志が弱い?
「そもそも欲望と意志ってどこが違うのさ? たばこを吸おうって意志を持ってるんだけど、健康のことを考えると欲望に負けてどうしても吸いたくなるけど、健康のことを考えると欲望に負けてどうしても吸いたくなくなっちゃうっていうことはないの? 橋本聖子っていうオリンピック選手がいるでしょ? いつまでも猛練習を続けてオリンピックに出続けるんだけどさ、ああいう人って意志が弱いんじゃないの?」
「それはなんともいえないさ。もちろん、オリンピックに出たいって欲望に負けてついつい練習しちゃう意志の弱い人だともいえるよ。でもね、ふつうはね、だいたい世の中で価値あることだと認められているけど自分にとってはちょっとつらいことの方を『意志』って呼んで、その逆の方を『欲望』って呼ぶんだよ。かんたんにいえば、意志が精神的で欲望が肉体的、意志が善玉で欲望が悪玉。この区別の背景にある人間観はね、人間は欲望のおもむくままに自然に行動してると、悪いことをしがちだから、意志の力でその自然の傾向をおさえて、善いことをしなくちゃいかん、っていうもんだな。でもね、ぼくは逆も考えられると思うよ。人間は欲望のままに自然に行動してると、ついつい善いことをしちゃいがちだから、意志の力でその自然の傾向をおさえて、悪いことができるようにしないといけない、ってね。まあ、いずれにしても、意志と欲望に善と悪を割り振るのは根拠のない偏見だね。」
永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』ちくま学芸文庫2007年
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