コンパクトなオリンピック
平山 バブルが崩壊するまでは、地価が上がる時は日本中の全部の地域で上がったし、下がる時は全部で下がった。ところがミニバブルの時は、大都市だけで地価が上がったし、東京の中では、地区別に下がるところと上がるところが同時に出ました。それは初めての現象でした。都市全体が同じ方向を向いて熱くなる、同じ方向を向いて冷たくなるというんじゃなくて、上向くところが割れ出したというのが、二〇〇〇年代に入ってからの変化です。人口の伸びが止まり、そこに経済の不安定化が重なったことが、不動産市場の動き方を変えました。
町村 東京は歴史的に山の手と下町、東と西で階層格差が非常に大きい。実際に収入とか学歴とか職業で東京の地図を描くと、いまもなお大きく二つの世界に分かれているのが現実なわけで、決して東京は一つではないわけです。
古くは台東区近辺の下町が、いちばん人が住んでいるところ、一種の中心だったわけですが、戦争を経て六四年の東京オリンピックの時に、スタジアムや選手村などの関連施設が、山の手、東京の西の方に集中して建てられた。たとえば選手村やスタジアムは代々木公園周辺、マラソンコースは甲州街道を通って調布あたりまでといった具合です。さらに、それらの施設を結ぶ環状七号線、環状八号線の一部なども整備されて、東京の西に向かう流れが加速して、やがて都庁も新宿に移動した。東は基本的に放置されたままだった。
二〇一六年招致で東京が主張した「コンパクトなオリンピック」というのは、要するに都心の本当に限られたごく一部にスタジアムを集中させることでした。その狙いのひとつは、東京都が所有する塩漬けになっている埋立地の活用にあったのだと思いますが、これはもはや郊外でもなく、また西も東も関係ない。
ととえば二〇一二年のオリンピック招致の際にロンドンやパリが主張したのは、東京で言うところの東側、つまり古くからの工業地帯で移民の多い地域のいわば町おこし、再活性化でした。もちろん、これは再開発による人口移動、追い出しの要素が強いので、手放しで称賛するつもりはないですけれども、少なくとも都市が抱えている問題を解決するというキャッチフレーズと結びついていました。移民問題の重視や都市の文化的多元性をオリンピックと結びつけて主張したことが、ロンドンが招致に成功した一つの理由だったと言われているわけです。先ほどの議論に戻りますが、東京の場合、そういう意味での戦略性も持てなかったところが、オリンピック招致としてはとても不幸なことだっただろうと思います。
町村敬志×平山洋介/対談目標を見失った都市・東京『世界2009・12』
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