独学若冲
京都錦小路の青物問屋「桝源」の長男として生まれ、数え年二十三歳で家業を継いだ若冲が、絵の道に入った動機についてはよく知られていない。おそらく、三十を過ぎてから、何か一つは趣味をとすすめられて画筆を執ったのではなかろうか。
「少シモ学ヲ好マズ、字ヲ能クセズ」、芸事はいっさい駄目、「凡ソ声色宴楽、人ノ娯シム所、一ニシテ拘ル所無シ」と、相国寺の僧大典に評されたような無芸の堅物であるかれの、唯一の道楽が絵だったわけだが、これが昂じてついには家業を放棄するまでになる。その裏には、商人に向かない自分の性格――独身癖、隠遁癖にまつわる人知れぬ悩みがあったらしい。丹波の山奥に二年間姿をくらましたことがあったとも伝えられる。その救済を一方で仏教に求め、それがかれより三つ年下の大典禅師との出会いとなったと推測される。若冲が大典の知己を得たのは、かれが三十六、七歳のころである。以後、大典は若冲の思想上の教師として、あるいはまた、絵画理論の教師として若冲の進路の決定的な影響を及ぼす存在となった。
不惑の四十歳を迎えた宝暦五年(一七五五)、かれは家督を次弟宗厳に譲り、早々と楽隠居の身となった。すでにこのときまでに、かれの画技は、京都の寺院にある中国花鳥画のひたむきな模写を通じて玄人はだしのものとなっていた。というよりは、若冲独得のスタイルの原型は、すでにできあがっていたと見られる。かれにとっての天職が青物の商いになく、絵筆にあることはもはや誰の目にも明らかだったろう。
辻惟雄『奇想の図譜』ちくま学芸文庫2005年
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