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2008.10.06

明治二七年が転換点

鶴見 人間の大きさからいって、幕末というのは大したものだ。彼らは、みんな自分の弱さを見つめているんだよ。例えば陸奥宗光。家老だった親父が失脚して、彼は龍馬の弟子になって海援隊に入り、そのあと東京で洋学の勉強をしていた。ところが授業が終わるとパッといなくなって、浅草に行く。友達が「どうして浅草に行くのだ」と聞くと、「浅草には雑踏がある。雑踏に逆らう練習をしているのだ。自分は見てのとおり非力だ。ケンカをすれば必ず負けるから、逃げ足の練習をしている。どうだ、俺とケンカしてみんか? 逃げ足は速いぞ」と。

鶴見 そういう心の置きどころなんだね。高杉も坂本龍馬も、自分の弱さをよく考えている。それが幕末から明治二七年までです。
 なぜ明治二七年かというと、生方俊郎の『明治大正見聞史』、あれに出ている。生方の出身地の沼田で子供が遊ぶときに、戦争ごっこで、官軍になる子がいない。みんな西郷軍になる。西郷軍が勝つと思っているから。ところが明治二八年に日清戦争で日本が勝つと、子供が日本軍になるようになって、日露戦争で完全にひっくり返る。それまでは中央政府は微弱なものだと思われていたのが、意識が変わったんです。
 幕末の、本当の意味でのエリートだった何人か、これは世界史のなかで見ても、相当な人物だと思うね。薩摩、長州、土佐なんかにはそういう人がいた。薩英戦争だって実質的に薩摩が勝っていたよね。長英戦争は長州が敗けたけど、イギリス海軍に相手を見る器量があって、よく戦った長州と薩摩とを信頼した。そして、金銭的にも武力的にも助けて、明治維新を後押しした。
 そういうことが、日露戦争を境に、忘れられていったというのが問題ですね。
 日露戦争をやるかどうかの会議のとき、児玉源太郎は「やりましょう。だけど一つ約束してください。私がここでやめてくださいと言ったら、どんなに不利な条件でも呑んでください」と言いました。あの頃非常に力があった重臣の山県有朋や伊藤博文、総理大臣の桂太郎、外務大臣の小村寿太郎の前でちゃんと言った。それで実際に自分が参謀長になって、いざ戦況が膠着状態に入ると「今です」と講和を進言する。
 講和交渉に出ていったのは小村です。相手は日露戦争に反対したヴィッテ、これが頭いいんだよ。非常にまずい状況だったけれど、小村は承知の上で不利な条件で講和を結んできた。児玉の提言は活きたわけでしょう。国民は「もっとやれ」と言って、日比谷焼き討ち事件なんかが起きますが。
 児玉とか小村とか、その辺りまでの人たちは、スピノザが『エチカ』で言っている「つくる自然」(natura naturans)なの。幕末から日露戦争終結の明治三八年まで、だいたい五十年続いた。そのあとは、「つくられた自然」(natura naturata)になっちゃう。つまり、我々が日本国家をつくるんだという意識をもっていた人たちから、日本国家につくられた人になった。

鶴見俊輔(評論家)×中島岳志(北海道大学准教授)/ちくま学芸文庫「日本の百年」完結記念 鶴見俊輔インタビュー 近代をつくった幕末明治の日本人『ちくま2008・9』

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