困った、どうしよう
水の領域では、毎日いろいろな事件が起こっていて、偶然に自分がその場に居合わせたときだけ一片の記憶となる。そして、その記憶の中には、これからお話することのように、ほんのわずかな時間でも生涯忘れがたい寓話となって心の中にしまい込まれることもある。
路地は両手を広げると指が当たってしまうほど狭い。光が差し込まず薄暗く、いつも別の空間に迷い込んだ気持ちになる。
三脚を担ぎ直し、路地を数歩進んだときのことだ。私はなにかの気配を感じ、前方を見た。すると一〇メートルほど先に黒い影が立っていた。
人。いや、人ではない。ひょろ長く、高さはへそのあたりまでしかない。
暗さに目が慣れてくると、おぼろげに純白の体が浮き上がってきた。
よく見ると、それはコサギであった。
私はとっさに足を止めて息を殺した。コサギも直立したまま私を見ている。おそらく、川へ抜けようと路地を歩いてきたところを不幸にも私と鉢合わせになってしまい面食らってしまった、という感じだ。
私も三脚を抱えたまま身動きが取れず、硬直状態になってしまった。
「困った、どうしよう」
しばし時が流れた後、コサギはゆっくりと首を伸ばして、後ろを振り向くような格好をした。レモン色の目が、光の加減でべっ甲色に変わってゆくのがわかった。頭からもたれる二本の冠羽が路地を走る風にしなやかに揺れた。彼は私のほうに注意を払いながらも、精一杯、後ろの様子を精察しているのがわかった。
コサギが再び首を元に戻すと、また真正面の私とのにらめっこが始まった。落ち着かない口の動きを見ているだけで、相当に困惑しているのがわかった。
私は「このまま後戻りしよう」と決心した。そして体は前を向いたまま、足音を立てないように、じわりじわりと後退していった。
と、そのとき、想像もつかないことが起きた。
私の行動を真似たのかどうかはわからないが、なんとコサギのほうも後ずさりし始めたのである。人間というのは、目の前で起こっていることがあまりにも信じれない出来事だと笑ってしまうものなのだろうか。私は顔にうっすらと笑みを浮かべていた。もしこの場面を生きもの好きの絵本作家が見ていたとしたら、また一冊、想像力を掻き立てる子どもの本が誕生したことだろう。
やがてあたりがぱっと明るくなり、私の体は、路地から抜け出た。
コサギは、まだ黒く長い足をぎこちなく交差させて、後ずさりをしていたが、私が路地から抜け出したことを悟ると、急に体をUターンさせた。そしてS字の首を前後に揺らしながら、表通りに向かって小走りに駆け出した。
表通りへ脱出したコサギは、純白の羽が広がりきるのももどかしく、黄色い足で地面を蹴り上げた。風切羽がひるがえり、コサギの体はゆっくり宙に舞い上がった。
今森光彦『蒼い宇宙 琵琶湖水系をめぐる』世界文化社2004年
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