タンゴバーのピアニスト
その婆さんの姿を見たとき、最初は間違いなく物乞いだと思った。
アルゼンチンの首都、ブエノスアイレスの場末にあるタンゴバー。薄暗く狭いフロアに並んだテーブルのひとつに、私はいた。客は全部で八人。時刻は午前零時。うまいワインを楽しみつつも、なかなか始まらない演奏に苛つき始めた頃、喪服のような黒いワンピースをだらしなく着込んだ婆さんが店に入ってきたのだ。
手入れのされていないボサボサの白髪をかきあげ、唇の端にくわえタバコを二度、三度とふかすと、婆さんは店の中にいる客を品定めするような目つきで見回した。物乞いの割には大きな態度だなと、少々あきれながら私はその様子を見ていた。すると婆さんは、思いの他しっかりした足取りで、フロアの前にあるピアノに向かった。そして、何の前触れもなく、くわえタバコのまま鍵盤に指を置いた。
婆さんはピアニストだったのだ。私は驚き、演奏を始めた婆さんの皺だらけの顔を呆然と見つめた。
大石直紀/「OBLIVION」を聴きながら『本の旅人2006・6』角川書店
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