はやく支度をしなさい
当時の上海を象徴する有名人に、鄭蘋如という女スパイがいた。中国人司法官の父と日本人の母の間に生まれた鄭蘋如は、人並み外れた美貌の持ち主だった。
――死刑執行官は林子江という中国人官吏でした。林は監禁中の鄭蘋如に「鄭さん、こんな屋敷にいつまでおっても面白くないだろ。きょうは特別に君を映画に連れて行ってやろう。だから早く支度しなさい」と言って表に連れ出した。鄭蘋如はおしゃれな女性でしたから、金色の靴を履き、めかしこんで林の用意した車に乗り込んだ。
車が上海の繁華街を抜け、郊外に差しかかると、さすがの鄭蘋如も気がついて狂ったように泣き叫びはじめたそうです。私は前もって連絡を受け、刑場に先回りしていましたので、こういう状況はすべて憲兵から聞いております。車が赤土だらけの刑場に着きますと、確かに鄭蘋如に泣き声が聞こえました。鄭蘋如は二人の支那人に両脇を支えられて車からひきずりおろされ、あらかじめ掘ってあった真四角な濠の前に座らされました。
執行する直前、鄭蘋如は中国語で何か言っていたようです。あとから通訳に聞くと、顔を撃つのだけはやめて、と言ったそうです。鄭蘋如を座らせた後ろで死刑執行文を読みあげ、それが終わってすぐ、拳銃で後頭部を撃ちました。ダーンという音が鳴ったかと思うと、体が前に吹っ飛んで濠のなかに入った。ところが、完全に入りきれないで金色の靴を履いた足が濠の淵にひっかかった。それを支那人たちが濠のなかに引きずりこみ、まわりの赤土で埋めて処刑は終わりました。
その帰り、車の外を通る婦人を一人ずつ眺めるともなく眺めていたんですが、そのとき初めて、ああ、鄭蘋如というのはたしかに美人だったんだな、上海であれほど美しい女はいなかったんだな、ということをあらてめて確認したような気がいたしました・・・・・。
佐野眞一『阿片王』新潮社2005年
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