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2005.01.24

故意か早とちりか

デカルトは宗教と科学とを明確に区分けしようとした。しかし、表面はすっきりと縄張りが分かれたように見えても、神はあらゆるところにその影を落とすスーパーな存在である。なんてったって創造主なのだからどうしようもない。市場経済にいたっては、はじめから「見えざる神の御手」にたよりっきりではないか」

 利子の問題を考究したのは、イスラム教だ。生産における生命の倫理を優先させたのは、ジャイナ教である。
 そんなことを考えながらコーヒーを飲んでいると、つぎからつぎへと妄想めいた考えがひろがっていく。 
 コーヒーはそもそも、イスラム教徒が珍重した眠気ざましの妙薬だった。深夜の瞑想を重要視したイスラムでは、コーヒーは聖なる飲みものだったのである。ヨーロッパにコーヒーをもたらしたのも、イスラムの軍勢だったといわれている。
 コーヒーの一滴にまで神の影の落ちている世界、それが生むだした文明は、一見、神なき物質社会の様相を呈しているが、じつは深部でどうしようもなく宗教とからみあっているのだ。
 ドーピングとナショナリズムが交錯するスポーツの祭典にも、聖火台と聖火ランナーを欠かすことができない文化がある。私たち日本人は、それを単なる点火台、点火ランナーとしか見ていない。
 神の福音をたたえるゴスペル・ソングは、この国では神抜きのポップスとなり、バッハは純粋に音楽技法の天才として賛嘆される。
 民主主義とはなにか。それは民衆に選ばれた大統領が聖書に手をのせて就任し、司法の証人は神に対して宣誓し、貨幣には神の名を冠するシステムだ。兵士たちは従軍牧師に祝福されて出撃する神の軍隊の一部である。
 私たちはヨーロッパとアメリカを手本として、明治以来の近代化をすすめてきた。しかし、いちばん重要ななにかを抜きにしてそれを理解してきたのではあるまいか。故意か、早とちりか。
 私は故意にちがいないと思っている。政治家も、知識人たちも、みんな一緒になって知らんふりをしてきたのだ。

五木寛之/新・風に吹かれて『週刊現代2005.1.1』

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