そっと自分だけにしていただきたい
ぼくは死に際の風景といったものについて、なにも思い描いたことはない。どだい死ぬとは思っていないが、そういう時がくれば、そっと自分だけにしていただきたい。ただそれだけが願いだ。
近頃は、死を見つめ、死を悼むことに専念しすぎているのではないか。死のテーマが流行しているのではないか。なにも死は今に始まったわけではないが、わたしはそう思う。じわりと死に向かっている姿を、やたら見せつけられるのと、死者への追憶にかなり囚われすぎるせいだ。
医学が死にさからうから、わざわざ尊厳死とか自然死とか断らねばならなくなった。結果、死の意識に脅かされ続けている。
もともと家族は、数人で構成されていたが、今は二人住まいという意識がつよい。だから一人が居なくなれば、パートナーは独りぼっちになる。独りぼっちは、いつまでも消えた者の影を背負う。
ぼくは独りぼっちになったとき、パートナーの墓は作らなかった。初七日も三周忌もしない。骨は海に散らした。いつも窓から見ている海だ。本当はどこぞの土を掘って埋めれば済むことだが、土は所有者がいたり、変動があったりして厄介だから、海にした。
ぼくもその海に沈めてもらいたい。もともと死はぼくの意志ではないので、それは死にさいしての風景の選択ではなく、ぼくの死後を処理する人への面倒を考えてのことだ。
いつか週刊誌にぼくの言葉として、妻の骨を散らした海に、やがて自分の骨が沈んでゆくのかと思うと、ときめきをおぼえます、といったことが書かれていて、ぼくは激昂した。
自分が死んで、先に死んだ人と会えるなんて妄想をぼくがいだくわけがない。それは死ではなくて、この世まる写しの世界ではないか。
なにも無いのが死だから、生きている人間に死はない。生きているとはそういうことなんだ。
野見山暁治(画家・大正10年生)なにも無いのが死『文芸春秋2005・1』
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