たった一つの出発点
ルソーの晩年の著作『孤独な散歩者の夢想』を読んでいてぎょっとなった。
「わたしは、人間の自由というものはその欲するところを行うことにあるなどと考えたことは決してない」(今野一雄訳)
―したいことをすること、それが自由ということじゃなかったのか、と私はひどく混乱した頭で考えた。それじゃいったい彼は、このフランス革命の思想の淵源といわれる、自由という思想の近代における家元みたいなこの人は、どう考えているのか―「それは、欲しないことは決して行わないことにある」―?―!
私はそれ以後、かなり長い間このことばにこだわり続けた。そしてようやく私が気づいたのは次のようなことであった。
私のように、二十歳で敗戦を迎えたといった世代のものは、幼い頃は自由などということばは知らなかった。敗戦だ、アメリカ軍に占領された、天皇処刑だ、人民が国の主人だ!といった大さわぎの中で、自由という大切なものがある、と私たちは初めて聞かされた。では、自由ってなんですか? と私たちは尋ねる。いろいろな人が、これこれこういうことだ、例えば・・・・・・といった具合に答えたり演説したりする。だが、この答え方自体が示しているように、すべてこれはプラスの形で、言いかえれば、すでに存在するものを限定する形での定義である。たとえば岩波の国語辞典にはこうある。―他からの束縛を受けず、自分の思うままにふるまえること―。だが、これに従えば、人間として最も自由だったのは、たとえばネロとか、たとえばある時期のヒトラーということにもなりはしまいか?
うろうろ考えていた私は、ある日はっと気づいた。自由とは奴隷のことばなのだ、と。たしかにルソーの言うとおりなのだろう。奴隷が、これだけは、人間として、したくない、と言い切ったならば、奴隷に待つものは死であるだろう。だが死を賭しても、イヤだ、と言い切るとき、そこに「自由」がある。自由とは、その場の、その瞬間の、人間の尊厳のことであるのだ、と。私は、そのような意味で自由を意識していたろうか? 自由を持っていない、という言い方をする人はよくする。だが自由とは「持つ」ものではないだろう。選び取り行動するものなのだ。
私には別の面からの想いもあった。私自身ほんとうに深いところの自分が、したいことはなんなのか、容易に見つからなかった。なん十年もそれでうろうろしてきたのだと言っていい。今だってまだ、真に見つかっている、とは言い切れない。したいことをする、などとはおこがましい言いざまではないか。他の人を見ていたってほぼ同様だ。若いうちから研究課題を決め、一生をそれに賭けた人々を私は尊敬するけれども、それとはやや次元の違う問題であろう。
しかし、と私は考える。したいことは容易に見つからないが、したくない、って感じは、人はすぐ感じとることができる。たとい単なるわがままだと言われるような次元のことでも、たしかに、そこに、その人がいるのだ。それを大切にすることから出発すれば、自分が現れてくる、見えてくるのではあるまいか。むしろ、現代では、まじめな人ほどやっていることを自分が好きか嫌いかなどと感じてみようとせず、ただやらねばならぬことだから一生懸命にやる、という訓練のうちにからだを凝り固まらせてしまっているのではないか。
とにかく、ここのレッスンの場にいる間は、自分がこれをしたいのかしたくないのか、イヤなのか好きなのか、からだに問うてみよう。そしてイヤなことは、捨てよう。そこがたった一つの出発点かもしれない。
竹内敏春『「からだ」と「ことば」のレッスン』講談社現代新書1990年
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