何もかもすべて受動的な人生
美輪 帝国ホテルもどこも、ジーンズとサングラスのお客はお断りという時代だったんですよ。だから、お宅へうかがったら、お母さまに、「公威さんが、ああいう下品な格好をするようになったのは、丸山さんのせいでしょう、恨みますよ」って、言われました。それからお母さまが煙たくなって、お留守のときにしか行かなかった。
瀬戸内 お母さまは上品な方でしたね。
美輪 ええ、お父さまと違って文化的なことが大好きだった方ですね。
これだけは言うまいと思っていたんですけれど、もういいでしょう。実は、三島さんのお母さまは、お父さまをとても嫌がってらしたんですよ。お父さまという方は、アコースティックな神経がまるでない方で、文化とはかけ離れたところに存在している典型的な官僚型の人だったの。だから、お母さまはいつもお父さまのことをボロボロに言っていて、ケンカが絶えなかったんです。佐藤元総理の奥様の寛子さんも「あのご夫婦はほんとうに変わってるわね」とおっしゃってましたしね。三島さんは、お母さまに、『愛の渇き』の印税だけを遺産として残して死んでるんですね。
瀬戸内 あれもいい小説です。
美輪 なぜ、多くの小説の中から『愛の渇き』の印税だけをお母さまに贈ったのか、ということですよ。
瀬戸内 うーん。作家の抱える、今で言うところのトラウマ、ですね。
美輪 三島さんが、私とずっとつきあってくれたのは、結局、うらやましかったからだと思うの。あの方は何もかもすべて、私と違って受動的な人生だったでしょ。お父さまは官吏で、昔ながらの「物書き、株屋、芸人は正面玄関から入れるな」という人だったわけですよ。私がお宅にうかがっても、嫌な顔をされるぐらいで。昔の堅物の官吏そのまんまの人だったんですよ。
だから、三島さんは、背広姿で、髪をリーゼントにしてきちんと分けていた。文筆活動もお父さまには内緒で、万年筆も原稿用紙もお母さまがお父さまに隠れてそおっと渡していた。着るものも全部、お母さまのお見立てだった。学校も、上流社会志向だったお祖母さまとお母さまの希望で学習院に入れられた。
ところが、当時の学習院というのは、軍人ですら陸軍大将や海軍大将の息子や、平民でも岩崎、三井、三菱、住友といった財閥の御曹司、あとは、公、侯、伯、子、男爵の子息が来てるわけです。彼らは勉強なんぞできなくてもベルトコンベアの将来を約束されているから、文武の武の方ができることが一番尊敬されたわけ。でも、三島さんは文の勉強はとてもよくできたけれど、武はできなくて、へちまのうらなりとか、日陰のもやしなんて悪口ばっかり言われてた。自分の顔も、同級生たちの意地悪な目でしか見ることができなくなっていて、それが全部、コンプレックスになってしまったんですよ。でも、親孝行なものだから、帝大、大蔵省と親の言われるままに進んで、自前の人生じゃなく、全部"他前"だったんですよ。
ところが、私は、あらゆる生き方から、着ているものから、何から何まで全部、自分で調達して、人生を自前で生きていたわけですよ。そういう人間が目の前に現れて、すごいショックで、うらやましくてしょうがなかったようでした。
瀬戸内寂聴×美輪明宏『ぴんぽんぱん ふたり話』集英社2003年
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