頭の回転は平常の数百倍
山の場合ですが、遭難者のほとんど―おそらく九五パーセント―が、突然の事故死に直面したときにどうなっているかというと―。
「まず痛みを感じない。小さな危険(火事など)のさいに生じ得るような驚愕による萎縮もほとんどない。不安も絶望もない。むしろ冷静な真剣さ、深いあきらめ、事に対処する精神的安定と機敏さがあるのである。思考活動も非常に活発で、頭の回転の速さは平常の数百倍にも達する。目下の状況と、考えられるありとあらゆる結果を見通しており、精神の混乱はまったくない。客観的時間が主観的にはずっと長く引き延ばされている。電撃のごとく行動し、正しく熟考している。そのあとに多くの場合、自分の過去が突然よみがえるということが起きる。 墜落者が最後に妙なる楽の音を聞くことも多い。それから、バラ色の雲が点々と浮かぶ麗しい青空へ落ちていく。そして意識が苦痛なしにふっと消える―通常はどこかへたたきつけられた瞬間に。しかし、せいぜいたたきつけられたときの衝撃音が本人の前に聞こえるだけで、そのときも痛みはまったく感じない。五感のうちで聴覚がいちばん最後まで残っているらしい」。『死の地帯』(ラインホルト・メスナー著 山と渓谷社)
本人は意外に平静で、先ほどの臨死体験ではないが、転落していく自分を自分で見まもっている。そして氷河とか岩壁にたたきつけられて身体がこわれていく、その音を聞いているけれども、痛みは感じない。痛みを感じるのは、救助されて病院のベッドの上にいる自分を発見したときで、そのとき身体じゅうがものすごく痛くなる。
メスナーは非常に優秀な登山家だったようで、自分の遭難経験も含めて、登山と死、人生と死という問題を深く考えさせてくれる。これはすばらしい本だと思います。
岩田慶治『死をふくむ風景』NHKブックス2000年
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