織物のような物語
アイデンティティとは、ひとがじぶんに語って聞かせるストーリーであると、先ごろ亡くなった精神科医のレインがかつて個人のアイデンティティについて書いていたが、わたしたちの日常の現実といえばこれもまたさまざまの<物語>を内蔵することでなりたっているのではないだろうか。
ただし、わたしたちの日常を編成している<物語>は、たしかにあるまとまりを欠いたままではじゅうぶんに機能しないが、それじたいは穴だらけで、ところどころほつれており、さらに他のそれと整合しないところもある大まかなものでしかない。社会学者のアルフレッド・シュッツがかつて用いたことばを借用すると、その構成は同質的でも一枚岩的でもなく、多元的な領野を雑多なままに混在させている。現実はいくつかの<物語>によって織り合わされながら、なおかつそれを乱反射させるような塵やざわめきに満ちているし、しばしば一つの相貌へと硬直してゆくようにみえながら、あるいは定型的な<物語>の退屈な再生産でしかないようにみえながら、しかしその過程で「突然意表をつくような下絵が残り糸やあたらしく縒りあわされた糸で編まれるといったかたちで」(H・P・トウルン)知らぬままに地すべりを起こしていもする。それはまるで藪のようなものなのだ。だから、単一の視点から俯瞰できるような現実こそ抽象的というか空想的と思ったほうがよい。
しかし藪のようなこうした現実は雑多でありながらも凝集し、ゆるゆるでありながも織物のようなまとまりをもつ。それは通常はそれとしてはことさらに意識されないものだが、澱のようなある安定的な部分を含んでいる。そしてそれにわたしたちはふだん「ふつう」とか「あたりまえ」とか「自然な」といった感覚でとくにそれとして意識することもなくふれている。
鷲田清一『悲鳴をあげる身体』PHP新書1998年
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