ロス帰りのスチュワーデス
M君は音楽好きの静かな男で、スポーツマンであり、ぼくのようにメチャクチャをしない紳士タイプだった。M君は酒を飲んで好き勝手をしているぼくにむかって、「おまえは長生きしないよ」と口癖のように言っていた。そのM君がさきに死んでしまった。享年四十九歳だった。
M君の葬儀のあと、ぼくは娘のマリコさんと一緒に等々力渓谷を抜けて多摩川へ行って、川面に映る夕日をみた。M君にはちょっとした事情があり、じつをいうと、死んだときは二番目の奥さんと同居し、二番目の奥さんとの間に子どもがいた。マリコさんは、M君の先妻の娘であった。葬儀の日までぼくはそのことを知らなかった。M君の葬儀には、前妻の家族と新しい奥さんの家族の両方が参列していた。そんなことがあって、ぼくは前妻のきよ子さんとマリコさんと連れだって、多摩川へ行ったのだった。葬儀には出たが、前妻のきよ子さんとマリコさんは焼き場までは行かなかった。
マリコさんは、茶色の細長いカバンからフルートを出して、吹奏しはじめた。曲は「鈴懸の径」でM君が一番好きだった曲だ。多摩川の土堤は、犬を連れた人やジョギングする女性がシルエットになって見えた。マリコさんは川面にむかって、ちょっとうつむきかげんになってフルートを吹き、後に束ねた長い髪がゆれていた。
マリコさんはM君が三十歳のときに生まれた子で、M君のかわいがりようは尋常ではなかった。ぼくはマリコさんが三歳のとき、スカートをさしあげて、たいへん喜ばれた思い出がある。そのときマリコさんが画用紙に書いたお礼の手紙をいただいた。
マリコさんのフルートを聴きながら、ぼくはきよ子さんとM君の思い出話をした。きよ子さんの話では、M君はマリコさんが生まれて二年後に、いまの奥さんとの間に女の子を作ってしまったという。M君はニ家族ぶんの生活費をかせがねばならず、そのため、かなり無理をして働いた。風邪で死ぬなんてなさけない話だが、働きすぎて躰が弱りきっていた、ということであった。してみると、マリコさんが三歳のとき、M君はもうひとり一歳の娘がいたことになる。(中略)
このあいだぼくはロスアンゼルスに十日間ほど滞在して、その帰路のことである。ロスを発った飛行機が成田に到着すると、クリクリッとした瞳のスチュワーデスがやってきって、「ごぶさたしています」と言った。マリコさんであった。
「この飛行機に乗っているのは知っていたんですが、嵐山さんの客室の担当ではないから来られなかったんです」とマリコさんは言った。ぼくはしばらくのあいだ声が出なかった。マリコさんは、髪の毛を短く切って、すっかりキャリアガールの風貌になっていた。口もとの感じがM君にそっくりであった。鼻すじはお母さんのきよ子さんに似ており、足はすらりと長く、腰がきゅっとくびれていた。これはM君好みの女性だなあ、とぼくは思いつつ、またまた月並みながら「しっかり生きたまえ」と言って飛行機を降りたのだった。
嵐山光三郎 58世田谷区 笛吹くマリ子さん『日本詣で』集英社2001年
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