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2004.09.04

森鴎外の誤謬

江戸末期から明治にかけての頃はまだ脚気についての科学的な基礎知識の積み上げもなく、情報交換の場も限られていたために、群雄割拠的な漢方医や僧医と、脚気についてはなんの知見ももたない洋(蘭)医たちは、なすすべもありませんでした。そして、明治十年以後は、富国強兵の国策のもと、全国から徴兵されて軍に入った兵たちの多くがこの病に倒れたことから、脚気は国家の一大問題として重要視されるようになりました。

 明治十一年に洋医、和漢方医が協力研鑚して脚気の真の療法を突き止めようと東京都脚気仮病院が設立されました。これは四年後には東京大学医科大学に引き継がれました。そして、明治十八年に大阪鎮台で麦飯給与が実施され、以後各師団でこれが実施されました。西南戦争以後の七年間の陸軍の一年間の脚気患者発生数は年間平均二四・六パーセントでしたが、十八年以後の麦飯給与の実施で激減し、全国的に師団にゆきわたった五年後には一・七パーセントさらにその一年後には〇・五パーセントに減り、日清戦争直後の明治二十六年には、〇・二パーセントにまで激減しました。
 しかし明治二十七年八月の日清戦争では四万一千余名の脚気患者が発生したのです。脚気による死者といえば、戦死者九百七十七名の四倍の四千六十四人にものぼり、「古今東西、戦疫記録中殆ド其類例ヲ見ザル」という惨状を招きました。さらに、明治三十七年にはじまる日露戦争では二十五万余の患者と二万八千名にのぼる同病死者をだしています。なぜこんなことがおこったのでしょうか。原因は森林太郎(鴎外)が主張した陸軍兵食論でした。森は兵士たちの食事から麦飯を廃し、純白米とたくあんを推奨しました。この致命的誤りによって陸軍に脚気惨禍がもたらされてしまったのでした。乃木希典の二〇三高地攻略の兵も親友森が推奨保証しているほとんど白米だけという粗末な兵食の犠牲となりました。すでにその十年以上も前に結論の出ている麦飯給与の有効性を無視し、森はあくまで自説に固執し「白米万能主義者」として直属ニ師団の軍医部長の麦飯給与の進言を一言も答えることなく退けたのでした。(参考・坂内正著『鴎外最大の悲劇』)

西原克成『究極の免疫力』講談社インターナショナル2004年

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