個性は目覚めたDNAのズレ
玄侑 仏教は言葉というものをあまり信じていないところがあるんです。いまおっしゃったことは、「色」と「空」の関係でもあります。「空」とは常に流動して止まないものですから、われわれは実感として捉えることができません。でも、残骸としての「色」はいつでもありふれている。そこで、言葉を「色」だと割り切る考え方もあります。
「事」と「理」とも言えます。言い換えると、現象と実体でしょうか。われわれは何かを現象で捉えるしかありません。言葉も現象です。でも、言葉を裏づけるピッタリと向き合ったものがあって初めて物事は完璧になる。「事理一如」、「事」と「理」が合わさって完璧になるという考え方ですね。俳句は、五七五という文字数からいって、現象を説明するのに十分ではありませんよね。
長谷川 そうですね。
玄侑 ですから、そこには深遠な「理」がないといけないし、その部分は読者が補わないと観賞できないという、何とも試されるような文芸形式ですよね。
長谷川 十七の言葉から溢れた部分がわからないと、ただの半端な片言のように見えてしまいます。しかし言葉の背後の世界が見えてくると、非常に小さいがゆえに生き生きと動いてくるところがあるのです。
玄侑 ご本の中で「習うということは、自分を捨てて無条件に真似ることだ」と書かれていましたが、道場の師匠と弟子もそういう関係なんです。たとえば、合掌は、どんな角度や位置でもいいわけですが、みんな、老師の合掌に似てきます。いまは早いうちから個性を求められますが、習うということが案外、大事なのではないかと思います。
長谷川 個性とは幻みたいなもので、実体がよくわかりませんね。僕は昭和二十九年生まれですから戦後の教育を受けまして、個性、個性と言われて育ってきました。『禅的生活』で「個性は目覚めたDNAのズレ」と書いておられますが、大事なところからちょっとずれた部分が個性的と言われるわけですね。そう考えると、つまらないところで競っているんだなと思います。
玄侑宗久×長谷川櫂/風流と軽みで生きよう『中央公論2004.8』
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