だめ、須藤くんには彼女がいるでしょ
ここにはふたりしかいないのだと自意識が過剰になった。話す言葉が互いにぎこちなく、だから葵は、ふざけて彼の左胸に聴診器をあてた。
「生きているかどうか調べてあげる」
須藤の心臓の音が耳に流れ込んできたとき、思いがけず葵は頬が紅潮した。闇の向こうから押し寄せてくる須藤の生命(いのち)が生々しかったのだ。しかもその音はどんどん加速していく。他人の鼓動を聴診器で聴くのは初めてだった。畏れに似た羞恥心のためだと思う。ではなぜ須藤に聴診器をあてたのか。いまとなってはわからない。
「見える?」
胸をまかせたままの須藤が、そういって大きすぎる声で笑った。
「聴こえる?」ではなく「見える?」と確かにいった。
葵はうなずいた。彼は、その部屋にあった友人の聴診器を耳にかけた。
「では一緒に」
滑稽にも、ふたりは向かい合って互いの心臓に聴診器をあてていた。からだがふれるほどの近さで、彼の手が、ブラウス越しとはいえ乳房に添えられた。葵も大きすぎる声で笑った。須藤が声を落としていった。
「静かに。鼓動だけに集中して」
葵は自分の音もどんどん速くなっていくのがわかった。見られている。わたしの闇に浮かぶ生き物をさぐられている。連打してくる須藤の鼓動は、熱を帯びて聴こえていた。彼のなかの生命の音が、わたしの両の耳穴から体内に押し入ってくる。それは下腹のもっとも敏感なところまでやってくる。わたしの生命の音も、彼の両の耳穴から彼のからだにもぐりこんでいく。
どちらも相手の胸から手を離さなかった。先に離してはいけないような気がした。透き通る音だった。透明だけれど重い。重いけれど弾力があり、しかも俊敏だ。
やがて、須藤の鼓動が、自分の鼓動のように聴こえはじめた。
「ひとつの生命になったみたいだ」
目を開けると、須藤は口の片端をあげて笑っていた。共犯者のような笑みだった。葵も同じ種類の笑みを返した。(中略)
葵のアパートの前に来たとき、彼は、部屋にあがりたいといった。葵も、須藤と一緒にいたかった。けれど口からでた言葉はちがう。
「だめ、須藤くんには彼女がいるでしょ」
彼の目が寂しそうに笑った。
「そうか。そうだな。わかった」
それだけの話だ。あとは何も起こらない。起こらないまま会うこともなくなり、須藤仁の心臓は、二十六歳で動きを停止した。
桐生典子『わたしのからだ』祥伝社文庫2002年
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