狼疾
「狼疾」とは、『孟子』の「其の一指を養い、その肩背を失いて知らざれば、すなわち狼疾の人と為さん」という文章から来たもので、指一本を惜しむあまり、肩や背までをも失ってしまう人の謂いである。
中島敦は、これを根源的な「観念」の無根拠性に囚われるあまり、現実の世界や人間存在を見失ってしまう人間のことと解釈している。もちろん、それは中島敦自身のことだろう。たとえば、「自分」が自分であり、他者とは違った「自分」であることの驚き、あるいは孤独感。ほかならぬ「自分」がここにいて、決して他の「自分」(=他者)ではありえぬことの隔絶感、そして孤独感。中島敦の小説には、こうした「狼疾感覚」が多く表現されているが、『狼疾記』ではこう書かれている。
自分は、今の人間とは違った・更に高い存在―それは他の遊星の上に棲むものであろうと、或いは我々の眼に見えない存在であろうと、又は、時代を異にした・人類の絶滅したあとの地球上に出て来るものであろうと、―に生まれてくることも可能だったのではないか? 其の正体が解からない故に我々が恐怖の感情を以って偶然と呼んでいるものが、ほんの一寸その動き方を変えさえしたなら、そのような事が自分に起こらなかったと誰が言えよう。そして、若しも自分が其の様な存在に生まれていたとすれば、今の自分には見ることも聞くことも、乃至は考えることもできないような・あらゆる事を見、聞き、考えることができたであろう。
川村湊「転校生の"狼疾" 中島敦伝」/『i feel』紀伊国屋書店2004/No.29
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