私は謝りにやって来ました
その仏典では「ゆるしがなければ未来はない」と書いています。どうしても過去にとらわれたままで許さないでいる。そうなると、生きていることの意味がなくなってくる。単なる死者の亡霊と化してしまう。ゆるすということは、過去から自分が前へ行くことだと言っています。
釈迦が樹の下に座っていると、ある男がやってきた。腕に小さな男の子を抱えている。そして、「釈迦牟尼、私の子どもは病気なんです、ヒーラー(治療師)たちはあきらめてしまって、治らないという。私のひとり息子です、ぜひ助けてください」。
釈迦は眼をつむり、手を開いているだけで全然動きません。足に触っても、釈迦は何も言いません。男は帰ります。
次の日も男は来ます。怒ってやって来ました。子どもは死んだんだと怒り心頭に発してやって来ました。そして怒鳴りつけます。叫びます。そして、釈迦を呪う。「あなたは、自分を聖人だと思っているかもしれない。ところが、あなたは何もしないじゃないか、だからうちの息子は死んだんだ、どうしてそんなことができるんだ」と。釈迦は何も言いません。眼も閉じたままです。この男は怒って釈迦の顔に唾を吐きます。釈迦はその唾を拭き取って、まだ何も言わない。男はまた帰ります。
二年後、男は再びそこにやってくる。二年間はこの男は考えたのでしょう。より賢くなっていました。こう言いました。
「私は謝りにやって来ました。あなたの顔に唾を吐きかけて申し訳なかった、陳謝したい。あなたは静かなままでしたけれど、何か重要なことを私に伝えようとしたんですね。あなたは医師ではない。医師があきらめたのに、医師でないあなたが奇跡を起こすことはできない。できないのが当然だったんです。それからもう一つ、あなたはもっと大切なことを私に伝えようとした。そこには語るべき言葉はない。息子を亡くした男に語る言葉などあるだろうか。あなたはそれを言いたかったんです。ところが、私は愚か者でそれを理解できなかった。そして怒ってあなたの顔に唾を吐きかけた。そして帰ってしまった。しかし、私が気がついて、いま誤りにやって来ました。許してください」。
ここで釈迦は眼を開けました。そしてこう言います。「そうなんです。あなたはたしかに唾を吐いた、それはそのとおりだ。しかし、あなたは川に唾をかけたんです。川の水がその唾を運んでしまったんです。だから、私は唾を吐きかけられたと思っていません。水があなたの唾を運んだ。私も水とともに運ばれていった。友よ、あなたはここにいま立っている。あなたは同じ河畔に立っている。そして、あなたは私に対する敵愾心でいっぱいだった。そのあなたに対して私は何も言うべきことを持たなかった。あなた自身はそこから去って、そしてあなた自身がその敵対心をぬぐい去ることではじめて、私はあなたに語ることができるようになったんだ」と。
小此木圭吾・北山修編『阿闍世コンプレックス』創元社2001年
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