文明と文化
日本は精神の安らぎのための不合理な習慣でつまっている。そういう文化の累積とその共有が、自然にクニの形をとったのが、地上のほとんどの国の場合である。
ここで、定義を設けておきたい。文明は「たれもが参加できる普遍的なもの・合理的のもの・機能的なもの」をさすのに対し、文化はむしろ不合理なものであり、特定の集団(たとえば民族)においてのみ通用する特殊なもので、他には及ぼしがたい。つまり普遍的でない。
たとえば青信号で人や車は進み、赤で停止する。このとりきめは世界に及ぼしうるし、げんに及んでもいる。普遍的という意味で交通信号は文明である。逆に文化とは、日本でいうと、婦人がふすまをあけるとき、両ひざをつき、両手であけるようなものである。立ってあけてもいい、という合理主義はここでは、成立しえない。不合理さこそ文化の発光物質なのである。同時に文化であるがために美しく感じられ、その美しさが来客に秩序についての安堵感をあたえ、自分自身にも、魚巣にすむ魚のように安堵感をもたらす。ただし、スリランカの住宅にもちこむわけにはいかない。だからこそ文化であるともいえる。
司馬遼太郎『アメリカ素描』読売新聞社P39-40
| 固定リンク
「人間総論」カテゴリの記事
- 増税より原発(2012.05.04)
- コギト・エルゴ・スム(2012.04.28)
- 最後の侵略地(2012.04.25)
- 知識の土台(2012.04.19)
- 公共哲学(2012.02.06)













コメント