開始十秒
病院に行くと必ず怖いことを言われるから、嫌なんだ
ワイル医師は、かつて学んだハーバード医学校の経験から、一つの提言をしています。それは、言葉の力についての学習を医学校のカリキュラムにいれるべきである、ということです。
ぼくの知り合いのお医者さんで、そのあたりの患者さんとの呼吸をよくわかっている人がいます。戦後まもなく東京で開業して以来五十年、町のホームドクターとして大勢の患者さんをみてこられているのですが、そのお医者さんは、診察開始十秒が勝負だと言います。十秒間で、つまり、患者さんが最初に発する言葉や表情から、医者は病状に関するインスピレーションを得なければいけないし、またお医者さんは自分の言葉や態度から、相手の信頼を勝ちえなければならないのだそうです。
たとえば、重い心臓病でかなり苦しそうな患者さんが来たとき、その息づかい、顔色から危険な状態だと読みとります。そんなときは、相手の速い呼吸をわざとかわして、ゆっくりと言葉をかけます。
「どうしました。ここまで自分で来られたんだから、もう大丈夫ですよ」
そして、言葉とは裏腹に動作は敏速にするのだそうです。そうすると、患者さんの呼吸が目に見えて安定してくるらしい。
ふつうはお医者さんのほうも動転して、早口になったり、あわてたりしがちですが、そうすると、患者さんの鼓動もますます速くなり、その場で呼吸困難になるケースもあると言います。
戦前の医学校では、教授たちはよく、「ムンテラを使え」と言ったそうです。
ムンテラは、ムントテラピーの略で、ムントは、ドイツ語で、口とか言葉の意味だそうです。テラピーは、いま流行のアロマテラピーと同じで、英語でいうと、セラピー、治癒力とか療法という言葉です。医者は患者さんの信頼を得なければよい治療は行えない、したがって、それぞれの患者さんに適した言葉で対応し、その言葉の力を使って、治療をしなさい、と言われたそうです。
そのお医者さんは、もちろん先端医療の力も信奉し、積極的に取り入れていらっしゃるのですが、それと同時に、科学的医療を生かすのは、人間の命の通った言葉だということを肝に銘じて、毎日聴診器を当てているのです。
五木寛之『大河の一滴』幻冬舎文庫P216-217
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